みなさんは「済州4.3」を知っていますか?
済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、少なくとも約1万4200人、武装蜂起と関係のない市民も多く巻き込まれ、2万5千人から3万人超、定義を広くとれば8万人が虐殺されたともいわれる。また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという。その後も恐怖から島民の脱出が続き、一時、島の人口は数分の一に激減したともいわれる。
Wikipedia
済州4.3は、韓国では「チェジュサーサム」と言われ、済州にもこの事件の関連施設や遺構などが多く残っていますが、光州518(クァンジュオーイルパル)と同様、韓国でもまだ詳細が解明されていないことが多い事件、と言われています。
そして、この「済州4.3」と関連した場所がここ、日本の対馬(長崎県)にもあります。対馬はその場所柄、「国境の島」とも呼ばれ、古くから韓国(当時の朝鮮)との交流も深い地。朝鮮通信使関連の場所など、韓国と関連のある遺跡も多く残されています。その中でも私が一番気になっていたのが、今回ご紹介する対馬の「供養塔」です。
この供養塔は、対馬に流れ着いた済州4.3の被害者を弔う供養塔で、当時数百体もの遺体がここ対馬に流れ着いたとのこと。流れ着いた遺体は、長いこと水に浸かっていたこともあり、損傷も激しかったそうですが、流れ着いた膨大な遺体を供養したのがこの供養塔を建立した江藤幸治さんのお父様で江藤光さんだそうです。
この供養塔のことは、以前、新聞記事を見て知り、行ってみたいと思ったものの、記事にはその詳細な場所の説明はなく、さてどうしようかと思っていたところ、以前からSNSサポーターズとして活動をさせていただいている駐福岡大韓民国総領事館の担当者さんから、対馬取材のお話をいただき、今回の旅に同行させていただくことになりました。
以下、遺体に関する表現があります。ご注意ください。
対馬に遺体が漂着した当時の様子
遺体が流れ着いた当時の様子を、お父様から伝え聞いた息子の江藤幸治さん(写真一番右)。
江藤さんからそのお話を伺いました。
「1950年ごろ、対馬に数体の遺体が漂流してきたと聞いています。
それから数ヶ月、遺体が流れてきて、初めは薪を焼べて火葬して埋葬をしていたそうです。でも、その数は次第に多くなり、200体をゆうに超える遺体が流れ着き手に負えなくなってしまい、そのまま埋めるしかなくなったようです。発見当初は警察にも届けたようですが、あまりにも数が多いので、住民たちに助けを頼んだそうですが、住民たちは怖いと言って、なかなか人が集まらなかったため、父親が知人数人を説得して一緒に遺体を集め、埋めて供養したと聞いています。
遺体は、かなりの時間海の水に浸かっていたからか、腐敗して体がふくらみ、腕を引っ張れば腕が丸ごと抜ける遺体もあった。
父曰く、「遺体の服にハングルが書かれていて、一応韓国人だということがわかった」と聞いていたのですが、時間が経って、私がハンラサンの会の長田さんにお会いしたときに、済州であった事件についても知りました。
2018年に初めて供養塔で慰霊祭が開かれたことは、言葉では表せないほど嬉しかったです。塔を建てた2007年から、天気が良い春の日には妻と一緒に行って、供養をしてきました。自分たち以外の他の人も参加するようになるとは当時は思いもしませんでしたが、本当に嬉しいです。ハンラサンの会の長田さんとも、「犠牲者の慰霊祭は止めず、引き継いだ方が良い」と話し合いました。できる限り慰霊祭を毎年開催したいと思っています。
父の両親(祖父母)は韓国で商売をし、父全羅南道で生まれ、2歳まで向こうで暮らしたあと、対馬に来ました。
いつの間にか、自分も父が遺体を収集した当時の父の年齢に近づいてきていますが、私が同じ境遇だったとしても同じことをしたと思います。これは国がどうというわけではなく、同じ人間としてやるべきことだと思うので…。
父は生前「被害者がここまで流れ着いたのに、何もしないわけにはいかない。」と、よく言っていましたが、供養塔の建立に至るまでには紆余曲折がありました。
ある日、ある僧侶に「多くの死体を触ったので、供養塔を建てなければ良くないことが起こる」と言われ、父はどうするか迷っているうちに、2007年に亡くなりました。しばらくして、その僧侶は私にも同じことを言ったので、供養塔を建てることにしました。
若い頃は父の言うことを聞き流していましたが、時が過ぎて父の体調が悪くなり始めた2004年ごろからこのことの内容を詳しく聞きました。本人も残りわずかだと思ってか、かなり詳細に説明してくれたようです。」
この海流図の対馬海峡を通る赤い矢印(対馬海流)を見ると、遺体が済州島から対馬に流れてきたのは納得がいきます。(海流に関してはこちらも参考にどうぞ)
韓国が見える海岸に設置された供養塔
この供養塔は、対馬の北西部、海の向こうにうっすらと韓国を望む海岸に建っています。
椿は済州4.3を象徴する花。供養塔を囲むように椿の木が生い茂っています。椿はもともとこの海岸線に生えていたもので、特別この供養塔のために植えたわけではないとのことですが、なにか縁を感じます。
古より対馬海峡は波高く、往来に困難をきたしていた。
近年、朝鮮戦争の戦果で犠牲になった老若男女の遺体が朝鮮半島より海峡の荒波に乗って、この海岸に打ち寄せた。その数は数百に及ぶものであったという。その遺骸を、亡父・江藤光と島の人々が協力して海岸に埋葬した。哀れな異国の魂を鎮めてやりたいという亡父の意思を引き継ぎ、ここに供養塔を建立する。発起人 江藤光(平成19(2007)年2月没)
建立人 江藤幸治
平成19(2007)年5月吉日
慰霊碑 背面
駐福岡大韓民国総領事館 総領事の訪問
2021年12月某日。
駐福岡大韓民国総領事館の「九州の中の韓国探し」事業として、駐福岡大韓民国総領事館総領事 李 熙燮総領事とともに、私も同行させていただきました。
この場には、総領事に加え、担当領事、専門官、対馬の民団の方々とともに訪問。慰霊碑に献花をし、全員で合掌をしました。
この供養塔からは対岸に韓国を望むことができます。
供養塔へのアクセス
車がないと行けない場所なので、行く方はレンタカーの利用が必須です。
また、この周辺は日本の電波と韓国の電波が交差する場所のようで、安定した電波を得ることが難しい場所なため、この周辺はほぼ圏外だと思ってください。場所の確認は、市街地にいるときにチェックしておくことをおすすめします。(私もほぼ圏外&外務省からの海外渡航時に届くメールが届きました。)
慰霊塔は、厳原方面から北に向かい、「異国の見える丘展望台」の少し手前に海岸につながる道があり、その先にあります。車は手前の広場に止めて、慰霊塔までは歩いて向かいます。(Googleマップ参照)
まとめ
ずっと行きたかった場所に行くことができました。
韓国・済州島でも済州4.3の遺構を見たことがあったため、点と点が繋がったような気持ちになりました。
ここ対馬に流れ着いた方々が、亡くなってから海に捨てられたのか、投身自殺をした末に流されてきたのか定かではありませんが(また昔は対馬海峡での海難事故も多かったそうです)、冷たい海を漂流し、ここに流れ着いた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
九州は韓国との物理的距離も近いため、韓国に関連する歴史的な場所も多いです。
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