九州韓国関連スポット

有田焼と韓国 vol.2 泉山磁石場・石場神社【九州の中の韓国探し】

すず

<この記事を書いた人>

✔ suzu-trip 運営者

✔ 神奈川県出身

✔ 福岡在住10年目(2024年現在)

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有田焼と韓国 vol.1 九州陶磁博物館【九州の中の韓国探し】に引き続き、Vol.2として「有田焼と韓国のつながり」についてご紹介いたします。

 

私は、駐福岡大韓民国総領事館のSNSサポーターズとして、
福岡・九州の韓国に関する情報を発信するお手伝いをしています。

先日この関連で、韓国との関りが深い佐賀県西松浦郡有田町に行ってきました。
かなり盛りだくさんな行程だったので、数回に分けてご紹介したいと思います。

 

有田町ありたちょうは福岡市の中心地からは車で約1時間半強、
公共交通機関だと電車・特急で約2時間で到着します。

有田焼と韓国(朝鮮)の関わりについて簡単に説明をすると、以下の通り。

  • 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に朝鮮から日本へ引き上げるときに佐賀藩主の鍋島直茂が多くの朝鮮人陶工たちを連れてくる。
  • その中に「有田焼の祖」と呼ばれる「李参平イ・サンピョン」も含まれていた。
  • 李参平・佐賀県多久にて作陶
  • 李参平・有田の泉山で焼き物の原料となる陶石を発見
  • 李参平・有田で作陶開始
  • 東インド会社によって「IMARI」としてヨーロッパに売り出され、その名が世界で有名になる。

詳細はこちらの記事がわかりやすいと思います。(有田観光協会サイト内 有田焼説明

 

有田焼は山の谷間にある有田町で作られています。
昔から分業制を取っており、ろくろ、絵付けなどそれぞれのフェーズに分けて作り上げられ、
その技術に特化した職人さんが関わって作られます。
昔の有田町では、技術者が外で有田焼の技術を口外しないよう箝口令が下り、
細長いまちの北と南には関所が設けられ、厳しい検問があったようです。
フェーズごとの分業も技術の流出を防ぐためだった、との説も。
(現在は一人ですべてを行う人も多いらしい)

中国の焼き物が一世風靡していたころ、その産地である景徳鎮けいとくちんの焼き物の人気が高かったものの、
非常に高価だったため、有田で格安のものを日本向けに作り始めたことがはじまり。

もともとの「有田焼」は、有田で作られ、伊万里港から出荷されたことから、
「伊万里発の焼き物」=「伊万里焼」と呼ばれていたそうですが、
のちに鉄道が通ってからようやく「有田焼」と呼ばれるようになったそうです。

 

有田焼の発展に大きく関わった「李参平」は、
朝鮮出兵ののち九州に連れてこられ、まず日本名を名乗るように命ぜられ、
金ヶ江三兵衛かながえさんべい」となります。

当時の背景から、苗字を受けるということは「名字帯刀」で「武士の身分」になるということ。
武士と同じ身分を与えるということは、よほどその技術が欲しかった、ということが見て取れます。

その後の調査などを通して、「元の名前は『李氏』だったのでは」ということがわかり、
「李参平」といわれるようになったそう。
(金ヶ谷なら金(キム)氏だったのでは?とも思いましたが違うようです…!)

その、李参平はもともと佐賀県の多久という場所で作陶をしていましたが、
1616年に有田に移住し、有田の泉山で磁器のもとになる陶石を発見したことが、
大きな功績となっており、のちの有田焼にも大きな影響を及ぼします。

 


 

ここからは、14代李参平さんが直々にご案内・ご説明くださいました。

 

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泉山磁石場

泉山磁石場は「いずみやまじせきば」と読みます。
「泉山磁石鉱」とも呼ばれています。

ここは、有田焼の原料となる「陶石とうせき」の発掘現場で、
この場所がまさに、400年前に李参平が陶石を発掘した場所です。

 

「泉山磁石場」は公園のようになっており、駐車場もしっかりあります。

 

先人陶工の碑

 

有田焼を作り上げた名もなき陶工たちに感謝の意を込めて、登り窯をモチーフにして建立されたトンバイ(登り窯を築くために用いた耐火レンガの廃材など)を使った碑だそうです。

 

 

公園のように整備されているこのエリアの足元は、
有田焼のかけらが埋め込まれていて、
下を見て歩くといろいろな柄を見ることができて、とっても楽しいです:)

 

 

少し進むと陶石を掘っていた山の部分がひらけているので、
自ずと「うわ〜〜〜〜!」と声をあげてしまいます。

 

 

遠くから見ても壮大です。

 

泉山陶石について

日本磁器発祥の地 有田の歴史は、17世紀初期、朝鮮人陶工李参平が、ここ泉山で陶石(磁器の原料)を発見したことから始まります。それまでは、陶器が主流だったわが国の陶磁器生産に大変革がもたらされ、有田周辺には多くの磁器窯が築かれました。

江戸時代、良質の泉山陶石は皿山代官所によって厳しく管理・統制されており、そのため利用できる範囲も限られ、もっとも上質なものは御道具山(鍋島藩窯)が使用し、それ以外の陶石を内山、外山などの窯焼きが購入する場合は等級の区別がありました。

「400年かけてひとつの山を焼き物に変えた」と言われる泉山磁石場は、日本磁器生産に関わる遺跡として、天狗谷窯跡、山辺田窯跡などの五窯跡と共に昭和55年、国の史跡に指定されています。

 

説明より

 

この柵から先は普段は立入禁止エリアですが、
今回の取材では特別に中に入らせていただきました。

 

 

中はこんな感じの白い石がたくさん転がっています。

 

ちなみにこの陶石は1トン単位で個人でも購入可能だそうです。
ご入用の方はお問い合わせを….!!!←

 

 

この岩は知らぬ間に落石した岩とのことでしたが、幸い怪我人などはなし。
いつ崩れるかわからないこともあり、このエリアは立入禁止となっているようです。

 

 

「400年かけて、一つの山を焼き物に変えた」とありますが、
この広大な山の切り口を見るだけで、その壮大さ感じます。

一方で、「400年間で世に生み出された有田焼はこの一山で足りるんだ」とも思い、
400年という長い歴史を思うと、なんだか少ないような気もしました。

 

その当時、木に覆われていたであろうこの山をどうやって見つけたのか、
当時を想像したらわくわくしてきませんか?

 

韓国語を勉強し、韓国に留学し、韓国の歴史を知り、
帰国後、福岡にきて、焼き物を好きになって、
その産地に実際に行ってみるようになりました。

 

冒頭で話したように、焼き物の産地は韓国との関わりが深いので、
焼き物を中心に藩の施策や、当時の藩主やそれを取り巻く人たちの人間模様など、
さまざまな歴史をたどることで、いろいろな世界がつながって、あれがこうなるのね!と
点だった歴史が線でつながる気分をこの頃よく感じます。

 

また、韓国・慶尚北道の「聞慶ムンギョン」に行った時に、
「文禄・慶長の役」の韓国側の話を聞き
「韓国側ではこうだったのか」ととても新鮮でした。(記事はこちら

 

私が受けた歴史の授業では、「日本側が朝鮮に出兵した」という説明くらいで、戦争したというイメージすらないくらいの説明だったように思いますが(特に私は関東の出身なので、授業の内容も自分たちの周辺=関東の歴史の扱いが多かったせいもあるかと思います)、九州に来て、焼き物を辿りつつ、歴史に触れたことで記憶の彼方にあったような歴史の授業で聞いた単語が急に生き生きとしてくるんですよね。

 

九州にいると、実際にその場所が遺跡として残っていたり、
そのご子孫と実際にお会いできることもあり、より一層歴史が身近に感じられ、
「歴史」も時間の流れの中で起こった出来事の連続であり、
自分もまたその時間の流れの一部だと感じて、
その歴史の線の上に自分も存在していることにロマンを感じます。

 

 

右側に見える鼻の穴みたいなところは、
陶石を掘っていた穴です。

 

近くで見るとこんな感じ。

 

 

(巨人の鼻の穴みたい…👃)

 

オランダ東インド会社(VOC)のマークが入ったかけら。

 

有田焼が東インド会社によってヨーロッパで広まったことから、
こうした「東インド会社印」が入った焼き物も多く作られたのでしょうか。
(有田焼と東インド会社の歴史はこちらに詳しく書かれています。)

 

このかけらは階段のどこかにあるので、行く方はぜひ探してみてください😂

 

取材の途中、有田町の町長さんがご挨拶にいらしてくださいました!

 

石場神社

泉山磁石場のすぐ隣(徒歩2〜3分)に「石場神社」があります。

有田磁石場組合の看板の横から神社に上がることができます。(少し階段がきついかも)

 

李参平像

泉山磁石場の裏手にある石場神社には、焼き物の原料が採れる石場の守り神が祀られています。

 

本堂のすぐ右側には陶祖・李参平の焼き物で作られた像があります。

  

設置されたのは平成4年(1992)、
佐賀県窯業技術センターさんが作られたそうです。

 

高麗神

石場神社には「高麗神こうらいじん」という神様も祀られています。

高麗神は泉山の先祖の方々が遠く韓国の神を崇拝した石碑で、
朝鮮から渡来した人たちの子孫は毎年春に例祭をしていたといわれています。

高麗神(こうらいじん)

この石場神社の境内には、さまざまな石祠が奉納されていますが、その一つに「高麗神」があります。高麗とは日本でいう朝鮮半島の昔の国名です。江戸時代、文化6年(1809年)、皿山宗廟八幡宮の祭礼の時、氏子たちは“皿山が不景気になったのは、元祖の祭りをおろそかにした為であるから、途絶えていた「高麗踊り」を復活させて欲しい”という願いを藩に申し出ています。また黒牟田地区には「高麗墓」と呼ぶ文禄2年の年号が記された石塔があります。

このように、陶祖・李参平以来、朝鮮半島とのつながりが深かった有田にはあちこちに高麗の名前が残っています。この神社の他には、清六と呼ばれる地区にも江戸時代初期の登り窯跡の上方に小さな「高麗神」が建っています。いずれも、朝鮮半島から渡来した陶工やその子孫によって勧請されたものといわれています。これらの建立年代は明確ではありませんが、享保16年(1731年)に有田皿山について書かれた『皿山雀』という古文書の中に「高麗神」という名前が出てきます。

 

説明看板より

 

高麗という国は1392年には滅亡したと言われていますが、
1700年代になってからも「高麗」と呼ばれていたのは、
ちょっと不思議な気もしますね。
(合併後も旧市町村名で呼んでしまう感覚で
当時の人たちは「高麗」と呼んでいたのでしょうか…😲)

今の時代とは情報の伝達速度も精度も違うので、高麗が滅びても高麗だし、中国から来た人も高麗人だと言っていたという話もあるらしいにゃ!隣国の外国人はみんな高麗の人という感じだったのかにゃ~

 

 

今回ご案内くださった李参平氏

お忙しいところ、この日の行程の全てをご一緒してくださり、
いろいろなお話をしてくださった十四代 李参平氏。

とても気さくに、いろいろな質問に答えてくださいました。
ありがとうございました!

 

この日の行程は以下の通りです。

  • 石場神社
  • 陶山神社
  • 李参平の碑
  • 天狗谷窯跡
  • Gallery Baekpasun
  • 法恩寺
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韓国を仕事にするかたわら、ブログを書いています。コロナ前は365日のうち100日くらいは韓国にいたので、そのくらいまで戻したい所存です🙏

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