2011年3月11日→2020年3月11日
あれから9年の月日が経ったんだな、と思いつつ、3月11日が近づくといつも「あの日」を思い出します。私の周りで起きた「あの日」のことをここに書き記しておきたいと思います。
内容にはセンシティブな内容を含みます。残酷な表現もあると思いますので、苦手な方はここでお戻りください。
2011年3月11日(金)
当時、祖父(以下じいちゃん)と二人で、横浜の綱島に住んでいました。 あの日は金曜日で、当時美容師だった私はお休みの日でした。
いつもの休みの日のようにお昼ごろ起きて、午後から横浜港北のイケアに行く予定にしていました。起きて、昼ごはんのような朝ご飯を食べ、のんびりテレビを見てから、出かける準備をしました。そろそろ出ないと帰って来る頃には暗くなっちゃうかもなーと思って、家を出ようと思い、ドアノブに手をかけた瞬間。
とんでもない揺れが起こりました。
全く立っていられないほどの、とんでもない揺れが、長い間続きました。
10分?15分?
正確な時間はわかりませんが、とにかくものすごく長く、揺れている間、「私はこうして死んでいくのかなぁ」とぼんやり思ったのを今でも覚えています。 床に座り込む私を尻目に、一緒に住んでいたじいちゃん(当時73歳)が大急ぎで入口の扉と、窓を開けてくれました。
揺れが収まった時、窓から外を見ると、歩いている人たちもみんな座り込んで、あたりを見回していました。
揺れが収まっても、私は何もできずただ座り込むだけでした。
今までに経験したことのない揺れの大きさで、たまに防災体験で、地震を体験できる車の最大の震度のような感じと言ったら分かるでしょうか。とにかくとんでもない揺れでした。(後から知ったら、当時住んでいた家のあたり一帯は昔田んぼで、それを埋め立てて住宅地にしたらしい。)
電線がやられたのか、付近の信号機や看板のネオンは消えており、家のテレビも付かず。何が起こったのか全く分かりませんでした。呆然としていると、じいちゃんはすぐに、近くのコンビニに水を買いに出かけました。
一人になった部屋で、少しして我に返り、何気なく水道をひねってみたものの、水は出てきません。ここで私は、水道も電気を使ってるのかと知りました。(以前はそんなこと考えたこともなかった。)
コンビニにいったじいちゃんが帰ってきましたが、手には2リットルペットボトルの「おーいお茶」と「アクエリアス」でした。
それを見て、現実味が無かった私は「アクエリアスでご飯炊くのかな」と思った記憶があります。
今思えば、このじいちゃんの行動は本当にありがたかったなぁと思います。(ちなみに、じいちゃんは日ごろから災害に備えて、お風呂のお水もいつも溜めていたけど、この日の朝に風呂掃除をしてしまい、湯舟は空っぽ。お掃除したことを後悔していました。)
じいちゃん曰く、コンビニは電気が止まり、レジが動かず、電卓で計算をして、販売をしていたそうです。
その日はもちろん、イケアに行くことはキャンセルし、家で過ごすことにしました。
どこで地震が起きて、どんな状況なのか、まったく情報が入ってきませんでしたが、 唯一、祖父が持っていた電池式のラジオだけは動いたので、それで情報を取ることにしました。 ラジオから聞こえてくる情報から、東北が大変なことになっているらしいと知りました。
じいちゃんの地元は宮城県鳴子市。お姉さんと妹さんが宮城に住んでいます。また、私の母の出身は青森県で、親戚がたくさん住んでいます。
心配でしたが、電話をかけてみても繋がらないので、とりあえず、ラジオで情報収集をしました。
東北の海岸に津波が来ているらしいと、危機感のある放送がありました。
テレビがつかないので、ラジオの放送から推測するしか方法はなく、じいちゃん曰く、妹さんは海沿いに住んでいるとのことで、(じいちゃんの妹さんには会ったことは無かったけど)気が気じゃありませんでした。
日が暮れてしまったので、ばあちゃんの仏壇のろうそくをテーブルに載せて、光を取りました。テレビもないし、電気も付かないので、とりあえず早めの夕食を取ることにしました。
暗闇の中、じいちゃんと二人で夕食を食べていると、少しして、電気が付き、同時にテレビも付いて、テレビの画面には津波の様子が流れて、とんでもないことになっているのを知りました。その時は確か「死者16名」と出ていた気がします。こんな状況なのに、16人なんて少な過ぎる。今後めちゃくちゃに増えるはずだと思いました。
2011年3月12日(土)
次の日の土曜日は出勤だったので、一応お店には向かいましたが、お客さんはキャンセルだらけだったように思います(あんまり覚えてない)。
次の週の予約はほぼ全部キャンセルになり、どうしても、という数名のみ対応することになりました。
3/12に福島の原発が爆発し、 3/13にはサロンの幹部会議があり、3/14からは幹部スタッフとそのアシスタント以外は、一週間の自宅待機となりました。(3/13は休みだったので、先輩と六本木に行って遊び、帰りごろに空から灰?が落ちてきたのが手首に付いて、そのあと水膨れになったんだけど、あれはなんだったんだろう。今も痕が残ってる。)
でも、自宅待機の件はなぜか私だけ連絡が来ず、無駄に出社してしまった自宅待機 初日の3月13日。出勤ついでに仕事をすることになりました。前日(地震当日)出勤したあるスタッフは、電車では4駅の距離にある家まで6時間もかけて歩いて帰ったといいます。道は朝の通勤ラッシュのような込み具合だった、とのことでした。
次の日からは自宅待機になりましたが、テレビで連日報道される津波の映像と、原発の緊迫したニュース、度々来る余震(しかも結構大きい)の影響で、不安で何も手につかず、2日間お風呂に入る気にもなれず、 眠くもならず、 でした。そのうち計画停電が始まり、日中いきなり電気が止まったり、夜8時ごろに電気が消え、寒いので布団に入って早く寝るしかない日々でした。
地震から数日が過ぎても、じいちゃんの兄弟とは連絡が取れず、連日の津波の報道で、じいちゃんも「もう妹はダメかもしれんなぁ」と言っていました。
津波被害身元未確認死亡者リストから、じいちゃんの妹を探す
地震から数日が経ち、横須賀にある実家に帰ることにしました。(横須賀の家は幸い無事でした。)
そこで地震の後、ずっと連絡の取れないじいちゃんの妹さんを探すことになりました。
「宮城県警 身元不明者リスト」
とか言う名前だったと思います。うろ覚えだけど。
宮城県警が公開している、津波で流された身元確認がされていない人たちのリストの中からじいちゃんの妹を探してみることになりました。生きているかもしれないけど、あの映像から沿岸の街の壊滅状態をみたら、そんな希望はほぼありませんでした。(じいちゃん曰く、姉さんは山の上に住んでるから大丈夫だろう、とのことだった。)
そのサイトを見る担当は、私になりました。
無機質な行政らしいホームページには、身元が確認されてない人の特徴がずらりと並んでいました。(検索してみたところ、現在でも身元不明の方のリストが宮城県警のHPにありました。)
一番覚えているのは、
「性別不明。10歳未満。胸に『ぶどう組』のワッペンあり。」
と言う記載。
それぐらい損傷していたのでしょう。どの人もこの程度の情報しかアップされていませんでした。
その情報がスクロールしても、スクロールしてもまだまだ続きます。
しばらく情報を探してみましたが、じいちゃんの妹に関する情報らしいものはありませんでした。
仙台からのお客様から聞いた現地の情報
数日し、当番が回ってきたので、美容室に出勤することになりました。
そのときにいらしたお客様は、仙台から毎回、東京での仕事のたびにきてくださる常連の方で、その方は幸い、被害は特になかったそうです。
接客に入りながら、仙台や周辺地域の様子を聞くと、「道端に死体がたくさんあって、見慣れてしまうほど。」と言っていました。そんなところからここに来たんだなぁ、と複雑な想いになりました。
地震の後も、1日に二組くらいはお客様がいらして、その方々はみんな口々に「家にいると気が滅入ってしまうから、一瞬でもそれを忘れたかったから、美容室にきた」と言っていました。その言葉を聞いて、私は「こんな状況だけど、こういうお客様がいるならお店を開けてよかったのかもな。」と思いました。
それから数ヶ月の間、お客様とは「3月11日のとき、何してましたか?」という会話がほぼ必ず出てきました。
じいちゃんの妹の安否
また数日して、じいちゃんが兄弟と連絡が取れた!と教えてくれました。
あれだけ探してわからなかった妹さんは、無事に生きていたのです。
山の上に住んでいるお姉さんの家に避難して助かったけど、家は津波で全て流されてしまったとのことでした。同じ町内の人で助かった人は数人で、妹さんも命からがら逃げて助かったと言うことでした。
今は、お姉さんの家で避難してるから大丈夫だよ、と電話で話をしたとのことで、その時は本当にホッとしました。(その時は食器を洗う水が無いのと、お箸・スプーンが無いのが不便だ、と言う話もしていました。)
母の出身地である青森では、津波の被害こそ多少あったものの、全員無事と言うことで、これにもまたホッとしたのでした。
地震発生 三年後、宮城県 大船渡市 訪問
地震発生から3年が経った2014年、仕事で宮城県の大船渡市に行くことがあり、その時、大船渡プラザホテル(だったと思います)に宿泊しました。
ホテルに向かう道中、急に道が開けて、一瞬、開発が始まったばかりの埋立地かと思うほどに、何も無い地が広がりました。
私が埋立地だと思ったそこは、津波によって街がなくなってしまったところで、ホテルの方に聞くと、この辺一帯はこのホテル以外全て流されてしまったとのことでした。
写真をさかのぼって当時撮った写真を発掘しました。
このホテルはその平野にポツンと残り、本当にこのホテル以外何もありませんでした。プレハブにいらっしゃる方々ともお話をし、津波の恐ろしさを3年の時を経て、目の当たりにしました。
このホテルのことを調べたら、今は新しい建物になっているようです。(以下の記事は2016年のもの)
解体が進められている建物の名は、大船渡プラザホテル。震災前から大船渡市民に親しまれてきたが、2011年3月11日の大津波で建物の3階までが浸水し、従業員や宿泊客は屋上に避難して難を逃れたという。被害の最も大きかった地域の中心部に残された大船渡プラザホテルだったが、2011年末には営業を再開。復興工事やボランティアの宿泊施設としてフル稼働してきた。
三陸地方では宿泊施設が限られていたため、なかなか予約がとれないほど。プラザホテルの明るい茶色の建物は、大船渡の復興が進んでいることの象徴でもあった。
震災の前も、震災の後も、大船渡の町とともにあったプラザホテルだが、道路工事のため移転することいなる。2015年3月に建設が始まった新たなホテルは、今年3月12日に完成。そして、旧・大船渡プラザホテルとなった建物の解体工事が現在進められているわけだ。
https://potaru.com/p/100000016554
今日で9年
3/11になり、テレビで当時の様子が流れると、あの時の日々を思い出し、今でも涙が出そうになります。記憶が薄まらないように、書き留めておこうと思い、細切れながらも震災関連で私が見たもの、感じたことをここにまとめました。
こうして書き留めると、当時のじいちゃんの咄嗟の動きは本当にすごいな、と改めて思います。こうして振り返ることで、今後も起きるであろう災害に常に備えたいと改めて思いました。
100回逃げて、100回来なくても101回目も必ず逃げて!
岩手県のある中学生の言葉で、石碑に刻まれているそうです。(当時のニュース記事)
津波もそうですが、地震、台風、最近でいえばコロナ。備えあれば憂いなし。
逃げて、何もなければそれでよかったね、と思えるようにしたいです。
9年という月日が過ぎましたが、あの日からずっと続いています。当たり前の日常は当たり前ではないことを、改めて考えたいと思います。
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